※今回の最高の一枚
就活の後に時間が余ったので広島市内を観光する事にした。広島城、原爆ドーム、原爆資料館に行きたいのだが時間的にどうだろうか…
―広島市(安芸国)
広島市城へ行く道は分かり辛い。地下通路からしか行けない様な気がする。太陽で大体の方角の見当を付ける自分には天敵と言っても良い存在である。
その地下道で見付けた暗渠跡は、広島城の嘗ての規模を想像させるに容易かった。
地下道を抜けると眼前に二の丸が映る。1989年に再建された櫓群の新しさが快晴の空を背景にするとより際立って見える。
二の丸へと進む道の反対側には広島市中央公園が在り(正確には広島城も含まれるためあくまでも一部に過ぎない)、陸軍五師団兵営跡の原爆被災説明版等が設置されていた。
広島城の暗渠跡
二の丸全景
二階櫓台と広島護国神社
陸軍五師団兵営跡の原爆被災説明板
二の丸表御門と平櫓2
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二の丸へと入ると先程の櫓群の内部が公開されていた。平櫓から薄暗い中へと入って行く。平櫓の内部には三子教訓状の複製が展示されており、表御門の内部には平櫓や太鼓櫓の縮尺模型が設置されていた。
多聞櫓の内部は、両壁に二の丸櫓群の復元までの過程が写真付で詳しく解説されたパネルが展示されており、伝統建造物の復元に関心がある身としては非常に楽しめるものだった。また、吉田郡山城の復元模型等も展示されていた。
非常に満足のいく内容だったが、太鼓櫓の2階に上がれない事だけが少し残念だった。
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中御門跡を抜けると本丸に着く。ここは2000年近い日本史の中でも重要な舞台の一つと言っても過言ではない場所だ。何故ならあの「大本営」の跡がここに在るからである。
日清戦争の勃発に伴い1894年9月15日から1895年4月27日まで明治天皇が広島に行幸していた事から、第7回帝国議会も広島で召集された為にここは一時期日本の首都だったのだ。
また説明板に拠ると広島に世界で初めて原子爆弾が投下された時、ここに在った地下通信室から女学生が広島の壊滅を通信したとある。
これもまた大東亜戦争(太平洋戦争)と言う歴史の重要な一コマの舞台となったと言える。
現在の広島からは想像も付かないが、それでもこの事実はこの国の「歴史」であると同時に誰かの「経験」でもある。…そんな、たった70年程前の話に過ぎないのだ。
中御門跡
中国軍管区司令部の地下通信室の原爆被災説明板
中国軍管区司令部の防空作戦室(地下通信室)跡
広島大本営跡
昭憲皇太后御座所跡
旧天守閣の礎石と現天守閣
南小天守跡
東小天守跡
裏御門跡
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広島城天守閣の展示物は割と面白い。
中でも第二層に在る常設展示「城下町広島のくらしと文化」のコーナーはかなり凝った造りになっており当時の人々の生活を垣間見る事が出来る為、歴史好きでなくとも存分に楽しめる事だろう。
現存天守閣よりもがっかりし易い復興天守閣の内部展示としてはかなり質の高いものではないだろうか。
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裏御門後を抜けて東から反時計回りに堀の周囲を歩く。北東部には広島陸軍幼年学校の門柱が残っており、軍都広島の往時の威容を偲ばせる。北西から望む天守閣は木々に覆われ見え難い本丸側と異なりその全容をはっきりと望む事が出来る。南西から見る西側の石垣も中々に絵になっていた。
広島陸軍幼年学校跡
広島陸軍幼年学校跡の原爆被災説明板
天守閣
本丸全景
太鼓櫓と多聞櫓(外)
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時間が迫る中急いで向かった原爆ドームは、相生通りの入り口から入ると多い茂る木々の向こうに見える。これらの木々は全て被爆後のものだ。
時を止めた原爆ドームと、今なお成長し続ける木々。
生と死と言う対照的な象徴を前に、何も言葉が見付からなかった。
原爆ドーム
原爆ドーム2
猿楽町通り周辺の原爆被災説明板
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近日中の再訪を誓い、今回は原爆資料館への訪問を断念した。バス出発の定刻が差し迫っている為だ。
バスターミナル内のコンビニで購入した弁当を食べ終えふと外を見遣ると、
既に日は落ち山の上には大きな月が昇っていた。
2日の間に力を使い果たしダルさを感じる体は、
原爆ドームでの記憶が鮮明な身には却って生の有り難さを感じさせるだけだった。
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