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旅暦『まほろば』

―森を駆け、遺跡を求めて道を歩み、海を訪ねては潜る。尋ねる先は、日出ずる国。

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近江八幡紀行

※今回の最高の一枚
 近江1泊2日の旅も佳境を向かえ、所は安土、城郭愛好家であれば必ずその訪問を夢見るであろう、近代城郭の先駆けの地を訪れた。
 
―近江八幡市(近江国)
 
 安土駅の周辺には、レンタサイクル屋が非常に人目を惹く看板などを掲げており、その見た目は一瞬土産屋か何かかと見間違う域にある。駅前の通りには3軒のレンタサイクル屋があるが、今回は安土観光レンタル深尾を利用する事にした。と言うのも、ここのご主人はお手製の観光マップを作っており、ここでレンタサイクルを利用すると無料でマップの配布や行き方等の説明を行ってくれるという、観光者にとってとても有り難いサービスを行っているからである。
 
 少々古めのレンタサイクル―あくまでも普段ロードバイクを愛用している身としては―を漕ぎ、ご主人のお勧めに従って百々橋へ向かった。近年の発掘状況に拠ると、この百々橋は「江藤の丘」と呼ばれる小山方面と対を成す安土城への出入口だったと考えられているそうである。それでご主人に勧められたのだろう。百々橋を渉り東へ向かうと、南山裾郭の石塁が続く道が在る。ここは嘗て城内路だったとされる場所である。この道はアスファルト舗装されているが、マンホールには永樂通寶の意匠があしらわれており、旧安土町の安土城へ賭ける思いの強さ?を感じる事が出来る。
 
 大手道の入口付近に到着すると、安土城の紹介記事でよく見る大手道が顔を現す。早速登る…その前に、安土城跡ガイダンス施設と呼ばれる休憩所や手洗所を兼ねた施設を訪れる。観光土産が販売されているかの確認であったが―多くの城郭に共通する事だが、本丸や天守などに在る土産処でしか売っていない物も在り、先に麓等の無料で入る事が可能な土産処を確認しておかないと悔しい思いをする事が多々ある―、自動販売機や観光チラシが設置されているだけであった。但し安土城5・6階部分1/7模型が設置されており(まるで神輿の様だった)、これから安土城を訪れる身の雰囲気作りに一躍買ってくれたから良しとしようか。
 
 大手道の東側、「江藤の丘」方面は自動車で進入する事が出来る。その為か、そちらの出入口付近に安土城跡の石碑があった。
 

百々橋

大手門西側石塁

大手門東側石塁

行幸門跡

永樂通寶の意匠を凝らしたマンホール

安土城5・6階部分1/7模型

安土城跡石碑と江藤邸跡(奥)

 
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 入城口で摠見寺仮本堂の特別拝観料を合わせた1,000円の拝観料を支払い(安土山は天正13年の廃城以降、摠見寺の境内地である)、大手道へと足を踏み入れる。城郭に魅せられて早10年、遂に日本近代城郭の原点へと辿り着いたのだ。
感慨深い思いに浸りながら真直ぐと伸びる大手道を見上げ、そしてゆっくりと登り始める。階段は所々、書物に書いてあった様に石仏が嵌め込まれており、両脇には天下人豊臣(羽柴)秀吉や徳川家康、加賀藩100万石の始祖である前田利家の邸宅跡と伝わる開けた土地が連なっている。
 

大手道

伝羽柴秀吉邸跡 櫓門跡

伝前田利家邸跡

伝徳川家康邸跡

 
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 そんな中で徳川家康邸跡と伝わる場所には現在、摠見寺仮本堂が建っている。天守や本丸の焼失後も現存していた本堂は、安政元年に三重塔や仁王門を残し他の主要建造物と共にこの世から姿を消してしまったのである。以後場所をここに移し現在に至るというのが大まかな経緯の様だ。
仮本堂の内部に入ると受付の女性に茶室へと案内される。場所の性質上正座して暫し待機していると、抹茶と茶菓子が出てきた。奇しくも同じ10年前、中学校の授業で茶道を習った以来であったが、粗相の無い振る舞いを出来たと思う…恐らく。羊羹はやや甘めだったが抹茶の苦味渋味との組み合わせは絶妙であり、抹茶味には目が無い自分の満足感を充分に満たす質だった。これを+500円で頂けるのであれば、拝観料1,000円も決して高いとは言えないだろう。
肝心の内部だが、障子画や屏風画等が各部屋や廊下に配置され、また庭園や茶室から見える中庭も侘び寂びの美的感覚を優しく刺激する造りになっており、旅で溜まった身体の疲れを幾許か取り除く事が出来るひと時だった。

 なお摠見寺には立派な鐘楼が在り、吊るされている鐘には以下の銘が刻まれれている。
 

安土山摠見禅寺者
贈大相国一品泰岩大居士信長
公之開基也奕世佼其後裔
住山矣宗哲蔵主其葛嵓而
敲磕干余門庭者有年乎茲
今也鑄洪鐘掛着於梵塲之
次乞銘之仍綴蕪詞充其請云

銘曰

日域靈刹 近左名區
高城陳蹟 效以鴻盧
寄相國廟 拓安土居

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家業繼述 荘厳綿敷
圓通榜閣 清浄滞湖
巨鐘鍠爾 勤備緇徒
敎發賢聖 徳到獨孤
上達無上 麁久三麁
依聲覚性 記事啓愚
禮樂重器 法道要樞
時不可失 何離須臾
伏冀
大樹誕膺景福
長祝

----------------

寛永二十年癸未十月良辰

長徳山主特英壽采識焉
 
摠見寺 復元案 より
 
大意は引用先サイトにて公開されているのでそちらで確認して頂きたいのだが、要は安土山摠見寺は織田信長が作ったよ!って事らしい。
神仏をも恐れぬ所業をし、行く行くは自らが天皇に成ろうとした無法者とされる信長だが、一向一揆の鎮圧に7年近くも費やす等の経験から、武力で「人身」掌握をする事が出来ても、人心掌握には宗教の利用が必要不可欠との考えをもち始めていたのかも知れない。
そして『if』信長が始めから宗教と共存し、利用しながら「天下布武」の政策を執り行っていたなら、本能寺の変は起こらず、その頃には天下統一を果たしていたのかも知れない。歴史に『if』は無いが、そういった事に思いを馳せるのが歴史の醍醐味と言った所ではないだろうか。
 

摠見寺仮本堂

信長公蛇石曳之図 老梅ノ図

屏風絵

茶菓子と抹茶

中庭

摠見寺 鐘楼と鐘

 
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 そして摠見寺を後にし、再び大手道を登り始める。大手道の終いは左手に大きく屈折するカーブに因って迎える。ここから先は七曲りと呼ばれる、非常に屈曲した道を登る事になる。やっと一般的な城らしい雰囲気が出てきたといった所であろうか。
 
 七曲りの行先には織田信長の家督譲りの息子、織田信忠の邸宅跡と伝わる敷地が在る。『青史端紅』で「暗愚な凡将」と評されつつも近年になってその定評が過去のものとなりつつある彼だが、甲州征伐時に高遠城落城の際、信長に「天下の儀も御与奪なさるべき旨仰せらる(信長公記)」とまで言わしめたとされる程有能だった様で、本能寺の異変の際にも信長が「城介が別心か(三河物語:信忠の謀反か、の意)」と云ったとされる程隅に置けない人物であったというのが史実に近い様だ。
そんな彼も本能寺の変で信長と共に共倒れしているが(但し場所は二条新御所)、もし彼が存命だったら…恐らく秀吉の天下は無かったし、家康にも難しかったかも知れない(息子の秀忠は為政者としては有能であったが武将としては恐ろしく無能だったそうだし…)。然れども孫の織田秀信は義浮上落城の際に家臣全員に対して感状を渡すなど凄く良い奴だったとは言え武将としての力量は無かった様で、却って戦国時代再び、なんて事にもなっていたのでは、とも思う。無論これは何の根拠も無い自分の唯の『歴史のif』に過ぎないが。

 なお少し手前には武田夕庵邸宅跡と伝わる敷地が在るが、武将にして茶人でもあった彼は、記録に拠るとあの信長に度々諫言する様な命知らず勇敢な人物だった様である。
 

七曲り坂

石仏

伝武井夕庵邸跡

伝織田信忠邸跡(右手)

織田信澄邸跡・森蘭丸邸跡

 
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 伝織田信忠邸跡を抜け黒金門跡へと繋がっている道を登っていると、不意に天気が怪しくなり始め、直ぐに小雨になった。一時持ち直したもののより黒く濁った雨雲の到来が近付いていており、せめて天守台跡ヘ着くまではと急ぎ足になった為、大和織田家 墓塔等は遠目から写真を撮るという苦渋の選択を強いられた。

 仏足石の様に真偽は定かでないものの日本でも2番目に古いのではないかとされる遺構や有名な織田信長公本廟等、天主台跡以外にも見所は沢山在るのだが、心行くまで堪能する事は出来なかった。
 

黒金門跡

大和織田家 墓塔(長谷川邸跡)

仏足石

伝二の丸(西の丸)

織田信長公本廟

 
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 そして城の要、本丸へ。天皇陛下の行幸を目論んでいたとされる信長だが、その行幸先は安土城で、ここ本丸跡に清涼殿の様な建築物が在ったのではないかとされている。手狭な敷地面積等の理由からやや否定気味の論調が強い様だが、懸造りの構造でそれを解消しようとしていたという説も在り、まだまだ不確かな事が多い、謎に包まれた城である。平成20年に予算不足から当初の予定通り発掘調査を終了してしまった。残念ながら全容解明には50~100年は掛かるとされる安土城の〝往時の姿〟を、自分の世代が存命する内に知る事は出来なさそうである。
 
 本丸取付台跡から天主台跡への出入口を登ると、不等辺八角形の天主台一望する事が出来る。よく確認出来なかったが、中央には礎石が無く、また出土した壺の欠片等が、在りし日の天主が吹き抜けであったという説の根拠となったそうである。

 天主台跡を下り伝本丸跡を一周する。八角平や搦手道、伝三の丸(東の丸)へと続く道は通行禁止となっていたのが少し残念だった。
 

伝本丸(清涼殿跡)

天主台入口

安土城天主跡

天主跡からの眺望

 
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 丁度伝本丸跡を離れ摠見寺へと向かおうとしていると、仏足石辺りで豪雨に見舞われた。懸念していた天気模様が、予想通り崩れたのだ。今年の夏は全国的な傾向なのだろうか、青天の霹靂という慣用句がしっくりと来る様な雷雨がよくあるが、この日もそうだった。一瞬弱雨になった隙に本堂跡からの眺めを写真に収めるも束の間、また直ぐに豪雨へと変わった。三重塔に激しい雨の降下痕がしっかりと写っている辺りから、如何に激しい雨だったかを想像して欲しい所である。
そんな豪雨も通り雨に過ぎなかった様で、仁王門にて雨宿りをしている間に日が雲間から顔を覗き始めていた。

 なお仁王門を下ると眼下には安土城築城の際に守護神として奉祀されたと云う石部神社が見える。この神社は百々橋を渡って直ぐの場所から入れたのだが、眼の前に広がる安土城の石垣を前にして、訪れるのを失念してしまったのが悔やまれる。
 

摠見寺本堂跡

摠見寺本堂跡からの眺望

三重塔

仁王門

石部神社

 
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 待ちに待った安土城跡の訪問が終わり、戦国山城の代表格である観音寺城を眺めながら、近江風土記の丘の資料館である(安土城も範囲に含まれる)安土城考古博物館や、隣接する敷地に在る安土城天主 信長の館を訪れた。
 
 先ず訪れた安土城考古博物館では、滋賀県の代表的な城郭の復元縮尺模型や安土城大手道の姿の変遷を含む安土町の歴史、文化財の展示等が行われており、また事前にレンタサイクル屋のご主人に貰ったチラシと引き換えに平成18年度秋季特別展「信長の城・秀吉の城」の本を景品として貰った。通常購入すれば、1,575円もするそうだから、それを考えるとレンタサイクルの1日1,000円も暴利とは言えないだろう。なお期間限定だった模様である。
 
 次に訪れた安土城天主 信長の館では、平成4年にスペインで開催されたセビリア万国博覧会の日本館の目玉であった安土城5・6階の原寸大模型が中央に展示してある。実際の内部がどうだったかは知らないが中々豪勢である。
これを目の当たりにしたのであれば、豊臣秀吉や宇喜多秀家が自国の築城に際し模倣したのも納得出来る。
 

観音寺山

旧安土巡査駐在所

安土城考古博物館

旧宮地家住宅

旧柳原学校校舎

安土城天主 信長の館

安土城5・6階原寸大

6階障壁画

6階天井画

 
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 そして最後は、駅前だから最後で良いやと後回しにしていた安土城郭資料館を訪れた。こちらには安土城天主の1/20サイズの雛型が展示されている。これは自動開閉式であり、内部の構造を見る事が出来る。普段は内部が見える様にしてあり、要望等を受けて閉める様である。

 なお近くには相撲櫓や織田桜といった織田信長繋がりの建築物や桜が在った。
 

安土城郭資料館

相撲櫓

織田桜

安土城天主雛形1/20サイズ

安土城天主断面

安土城陶板壁画(天主部分)

 
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 こうして安土訪問を終え、と同時に近江1泊2日の旅も終わった。
雨に曝され冷え切った身体は、いつも以上に疲労している様だった。
 
 
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